ポスドク問題とアメリカと日本の違い

先日、作家の円城塔氏が第146回芥川賞を受賞され、以前に書かれたポスドクからポストポスドクへという論文がちょっと話題になっている。
円城氏は東北大学理学部物理学科を卒業し、東京大学大学院で博士号を取得されたバリバリの理系で、その後ポスドクや各種研究員をしていたのだそうだ。
これは虚構の話として書かれていて、非常に面白いのだが、現実を知っている人間にとっては怖い文章である。
ポスドクという職業はあまり馴染みのないものかもしれない。ポスドクとは、ポスト・ドクターの略で、つまり博士号(ドクター)を得た後(ポスト)、どこかの研究室で、そのボスの下で研究を行う人間のことである。1996年から文科省の政策として、ポスドク1万人計画が策定され、それに伴い、ポスドクのポストが増えることになった。それまでも、博士号を取得した人間はつぶしがきかないとかなんとか言われ、就職には不利だとされていた。そのため、当然の帰結として博士号をとった人の多くがポスドクになったわけである。研究室のボスが計画したプロジェクトをポスドクや大学院生が実際に手を動かし、成果をあげる。資源のない日本にとっては、人材こそが資源であり、より多くの研究者を育てることは国益に沿っているとは思う。しかし、問題はただポスドクを増やしてしまったことだった。日本の研究職のシステム全体はそのままに。
私が今いるアメリカにもたくさんのポスドクがいる。私自身もそうだ。大学院を修了した後、いろいろな研究室でポスドクとして働き、実績をあげる。そして、その間、NIH(アメリカ国立衛生研究所)などに代表される様々な機関に自分のやりたい研究プロジェクトの詳細を書いて、グラントと呼ばれる研究費を申請し、自分の研究費の獲得を試みる。私の研究分野でもっともメジャーなのは、NIHグラントで、その中のR01を得られれば、年間3千万円程度が支給される。こういう大きな研究費を得ることができれば、晴れて自分の研究室を持つことができるわけである。得た研究費から、自分の給料、さらには雇ったポスドクの給料なども払う。もちろん、そこまで辿りつける人は一握りではあるけれど、自分自身の能力、努力によって、自分の研究室を持つことができるわけである。研究費を獲得できなくなれば、研究室がつぶれてしまうというリスクも持つことになり、完全に自己責任の独立したシステムである。さらに、自分の研究室で実績を積み上げることにより、テニュアと呼ばれる、所属する大学の終身雇用の権利も得られる。そして、何より素晴らしいのはそのチャンスがアメリカ人以外の研究者にも与えられていることだろう。実際、私の周りにも日本からポスドクとしてアメリカに渡り、自分の研究室を持つに至った優秀な研究者が何人もいる。最近は、アメリカも研究費が減らされる傾向にあり、グラントの採択率がだいぶ下がっているようなので、研究室運営は厳しそうではあるが。
一方、日本はどうだろうか。日本の大学の常勤のポストは助教、講師、准教授、教授とある。その下にポスドクがいるわけだが、例えば、そのポスドクが自力で研究費を獲得したとしても、その上のポストになれるわけではない。実際、ポスドクが獲得できるような日本のグラントは年間2,3百万円くらいなので、人を雇うことはできず、自分の研究で全て消える。ポストを決定するのは教授なので、成果を出したとしても常勤になれるとは限らない。つまり、自分自身の努力だけでは生き残っていけないわけだ。そんなシステムのままでポスドクを量産してしまった結果、身分の安定しないポスドクを続けるか、研究を諦めて就職するのか、多くのポスドクが悩むことになってしまった。例え身分が安定していなくて、せめて自分の好きな研究を続け、いずれは自分の研究室を持つことができるかもしれないという希望があれば救いがある。ポスドクよりもっと安定していないはずの小説家という夢を選んだ円城氏がそのことを表している気がする。
アメリカのシステムを全面的に支持するわけではないが、ポスドク増員を目指したときに、そのままではこういう状態になることはある程度予想できたはずだ。システム全体を変えるのは非常に難しい。しかし、そこから変えていかなければ、最終的に犠牲になるのは当事者である。
今、東大が秋入学の流れを打ち出してきているが、これも小手先の変更に思えてならない。国際標準にして、留学生を呼び込みたいと書かれていたが、留学生が少ないのはそんな入学時期の問題ではないと思う。大学としての魅力をもっと底上げしていくべきだろうし、そもそも大学の授業を全部英語にするくらいの改革は必要だろう。日本に来た留学生が、日本で自分のラボを持って研究を続けたいと思えるようなシステムを構築していかなくてはならない。
日本はこれまで枝葉な問題を少し改善することで、なんとなくやり過ごしてきていた。しかし、もう全体のシステムが社会情勢にそぐわなくなってきており、抜本的な改革が必要だろう。たぶん、そのことは日本人の多くが認識し始めている。大阪維新の会が躍進しているのもそんなことが一因なのかもしれない。